境内案内

境内のご案内です。


・法然上人尊像

浄土宗祖・法然上人は、幼いころに父との死別を経て、はじめ山門(比叡山)で天台宗の教学を学び、承安5年(1175年)、専ら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説き、のちに浄土宗の開祖と仰がれました。法然は房号で、諱は源空(げんくう)。幼名を勢至丸。通称は黒谷上人・吉水上人ともいいます。


・阿弥陀如来坐像 川口市指定有形文化財 昭和53年4月5日指定

阿弥陀如来は、無量光如来(無限の光を持つもの)、無量寿如来(無限の寿命を絶つもの)とも言われています。一切の衆生救済のために王位を捨てて出家し、48の誓願をたて、長い修行の後に西方極楽浄土の教主となった報身仏と説かれています。

当寺の本尊である阿弥陀如来坐像は、温顔で体躯は丸みを帯び、江戸時代初期の作品と考えられます。藤原期に盛行した定朝様式が忠実に表現されています。木造寄木造で、法量は像高88.5cm、肘張り54.6cm、膝張り72.0cm、光背高142.0cmを測ります。

像の背面には「聖蓮社冏誉蘆含和尚」の朱字銘が認められます。冏誉蘆含は、源長寺六世天冏の弟子、寛文13年(1673)に21歳で入寂しており、相当身分の高い人か伊奈氏の一族と推定されます。


伊奈家頌徳碑 川口市指定有形文化財 昭和48年(1973)5月24日指定

関東代官伊奈半十郎忠常が、寛文13年(1673)、弘文学院林之道甫(鵞峯)の文により、祖先の功績を讃えるために、菩提寺である源長寺に建立したものです。高さ190cm、幅100cm、厚さ21cm、碑台は正面中央に亀趺が陽刻されており、高さ61cm、幅130cm、奥行き72cmを測り、石材は根府川石です。


・大恩救主 釈尊涅槃像

2/15は涅槃会、お釈迦さまが80才の生涯を終えられた日(=入滅した日)です。入滅する様子を仏像としてあらわしたものを涅槃仏といいます。

当寺の涅槃仏は目を閉じているので、入滅後の御姿ということになります。『大般涅槃経』には、下記の内容が記載されています。資料としてご覧ください。

インド各地で多くの人々に布教して廻られた釈尊でありましたが、80才になり余命のないことを知り、生まれ故郷を目指して重い歩みを続けていました。

その道すがら受けた食事のあと、烈しい腹痛と下痢に苦しみながらようやくクシナガラ城の見える跋提川(ばつだいがわ)の辺りにたどり着き、この頃釈尊は痛みを抑えながらの歩行で体力の消耗は極限に達していました。

釈尊が阿難に「あの辺りで休みたい」と仰り、阿難は沙羅樹の根元に床を用意し、釈尊はそこへ頭を北に右脇を下に静かに横になり、悲しみに暮れる弟子たちに向けて「すべて愛するものと別れるのはこの世の定め、生ある者は必ず死す、諸行無常、盛者必滅は自然の理である。阿南よ、汝は私のためによく仕えてくれた、その心を忘れずに今後は修行しなさい」と、そして「私が説いてきた教えと戒律はお前たちの心のよりどころとなるのだ」と言われ、静かに目を閉じられたといいます。

 


・板碑

板碑(いたび)とは、中世の人々が追善供養や生前供養のために建てたものです。その年代は鎌倉時代後期から室町時代後期までの203年間にわたっており、境内とその周辺から発見されたものです。中世の人々の信仰生活を知るうえで貴重な資料となっています。


・水子地蔵尊

いつの世でも小さな子供たちの死は哀しいものです。水子地蔵さまは水子となってしまった子供たちの健やかな成長を見守って下さる仏様です。儚くもお亡くなりになられたお子様の冥福を祈る心の拠り所となっています。

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