当寺は浄土宗のお寺です。お檀家さまのご回向や年中行事を開催し、地域に根付いたお寺として運営しています。関東郡代であった伊奈家の墓石などの文化財もあり、観光でいらっしゃる方もおられます。
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<源長寺に関する書籍>
さきたま文庫より、源長寺の歴史や伊奈氏に関する書籍が刊行されております。
当寺にて販売しておりますので、ご関心をお寄せの方はお問い合わせください。郵送も承っております。
定価:600円(郵送の場合は配送料込みで1,000円となります。)
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<源長寺の由緒と沿革>
源長寺は、伊奈氏の菩提寺として、4代忠克以後の代々の墓があり、5代忠常建立の頒徳碑には忠次、忠政、忠治の業績が刻まれている。赤山城址は北方に隣接する。
伊奈氏は、家康関東入国と共に鴻巣・小室領一万石を給され。熊蔵忠次以後12代にわたって関東郡代職にあり、関八州の幕領を管轄し、貢税、水利、新田開発等にあたった。3代忠治の時に、赤山領として幕府から7千石を賜り、寛永六年(1629)に小室(現北足立郡伊奈町)から赤山の地に陣屋を移した。これが赤山城で、以来10代163年間伊奈氏が居城したものである。
(埼玉教育委員会より)
当、源長寺は関東郡代・伊奈半十郎忠治が居城に近い赤山の地にあった古寺を再興して伊奈家の菩提寺として創建し、両親の法名から周光山勝林院源長寺と寺号を定め、両親の菩提寺である鴻巣勝願寺の惣蓮社円譽不残上人を特請し、開山として迎えた。ときに元和4年(1618)であった。
二代住職、玉蓮社日譽源貞上人は忠次の三男で寺運の伸展と興隆につとめた。寄進をうけた50石の広大な寺領の外に寺域を整え諸堂をたて寺観を一新して江戸初期から中期にかけて武蔵国では高い格式を誇る寺とし、近隣に数ヶ寺の末寺を持ち、木曽呂の阿弥陀堂もその一つであった。源貞は後に迎えられて壇林勝願寺の六世となり、さらには鎌倉の大本山光明寺三十八世の座に就き、遂には京都の知恩院に晋董した高僧であった。 しかし、広大な寺領をもち権勢を誇り続けてきた源長寺にも漸く濃い翳りが出始めた。大檀那・伊奈氏の十代忠尊のときに失意の退陣を余儀なくされ、代々の所領は没収され赤山の館は解体を強いられて伊奈氏の経済的失調が決定的となった。この頃から源長寺の斜陽化衰退は始まった。
中興源底の建てた諸堂にも朽廃が目立ち営繕の期を迎えても伊奈氏の経済不如意から放任され、大伽藍の維持に困難を生じ段階的に規模を縮小して難局を越えてきた。 そのころ、寺運を回復する器量の住職おらず苦境は深刻化した。江戸中期以降明治にかけて源長寺は重大な時期を迎えたときに二十一世忻譽大念は寺外で没した明治18年(1885)。この頃、鐘楼堂をはじめ寺宝の多くを失い、加えて多くの離檀者があって窮状は加速して源長寺の暗黒時代となった。 広大な寺領も一部の者に次第に蚕食され、境内に隣接した土地を残して多くの寺領を失ってしまった。僅かに残った二町歩余の農地も終戦後の農地解放の政令に従いすべてを手放し、境内墓地の寺域約一町歩(1ha)が残ったに過ぎなかった。
この未曾有の難局に陥っても本尊仏に異常がなかったことは洵に幸いであった。当山に安置する阿弥陀如来は秩父より招来された火難除けの仏様と伝承があり、相好円満の温顔、均整の取れた藤原期定朝様式を忠実に受け継いだ作品と鑑定され、先の伊奈家の頌徳碑(昭和48年指定)に続いて市文化財としての指定(昭和53年)をうけたことはあり難いことであった。
現住廣譽定海、仏縁をもって昭和13年(1938)二十四代の法灯を継いでも当時は十数戸の檀家、正に少祿微檀。僅かに残った茅葺き一棟も十坪余に過ぎず、寺としての外観体裁はなく、辛うじて雨露を凌ぐのみで廣譽が常駐して本尊に給仕するには大きな決意が求められた。廣譽は土地の古老に伝承を聞き古書から盛時を偲びつつ教壇生活を続けて密かに時機の到来を待った。
昭和47年退職入寺した廣譽は寺運の再興、伽藍の再建を発願決意した。 荒蕪地同然の寺域を墓地として造成分譲し広く有縁の檀越を募り大方の効力を得ることを方策として樹てる。 幸いにして機運円熟し仏天の加護をうけて着工し、父祖以来の宿願、本堂、庫裡の新築、境内の植栽整備も同時に進行して昭和63年(1988)5月15日全檀信徒参集して浄土宗三上人の遠忌正当の記念法要に併せ落慶のおつとめが盛大に厳修され住職廣譽の生涯の大吉祥日となり、永年の悲願成就を泉下の諸霊に慶びの報告をした。
(源長寺境内の掲示物より)
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